Q:酸素魚雷って?
酸素魚雷(さんそぎょらい)とは燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた魚雷である。
Q:なぜ大日本帝国海軍は魚雷を中心とした海軍力を構築したのか?
大日本帝国海軍ではワシントン軍縮会議の結果がもたらした不利を克服するため、魚雷を主力兵装と位置づけ、戦術と併せて開発を進めた。この時点での水雷戦術は日本海海戦で示された通り、主力海戦で損傷した敵艦隊に対し至近距離から「とどめ」として投入することが考えられていた。
また魚雷は構造上、演習時には炸薬に換えて水などを充填する事ができた。この水は、気室内の空気により排出する事が可能で、主力艦艦砲の様に砲身の損耗を懸念することなく演習発射および回収を行えた。従って実弾発射訓練が比較的容易に可能であり、練度を上げやすい兵装であった。
従来の魚雷は、有効射程まで接近しないと攻撃不可能であったが、手段は違えど等距離から撃ちあえる兵器の出現と目された。
更に戦術的な酸素魚雷の最大の特徴は魚雷の航跡が目立たないということだった。酸素を酸化剤として使用する酸素魚雷では、発生する二酸化炭素が比較的水に溶けやすいため、雷跡は試射場でも目視困難だった。発見のしにくさは回避される可能性の低さにつながり、より命中弾を得やすかった。
本魚雷の動作中の排気はほぼ二酸化炭素で、排気の気泡による航跡を消し去った。この特性から日中の発見は困難だった。
しかし全ての魚雷に共通する欠点として、熱帯の海で夜戦に使用した際には、魚雷の高速水中走行により夜光虫が発する仄かな光の航跡が発生することは不可避だった。
なお、これらの発射テストは一本一本、大村湾堂崎鼻において何度も繰り返され、この結果、安全性、直進性などの完成度が飛躍的に向上した。特に、他国の爆発事故を尻目に徹底した安全管理がなされ、爆発事故はなかった。
酸素魚雷の整備・調整には、配管内の油分を完全に除去するため、4日から5日間の事前整備作業日数を必要とした。
潜水艦搭載用の九五式魚雷は直径が53cmであり、日本海軍水上艦艇が搭載する九三式魚雷に比較すれば小型で威力は小さいが、実質的には列強の水上艦艇搭載用魚雷と同等以上の性能を有していた。
太平洋戦争末期には、九三式魚雷は人が乗って操縦できるように改造され、後半のエンジン部基本構造はそのままに、弾頭、全体サイズともに約2倍から3倍に大型化され、特攻兵器である人間魚雷・回天となった。
Q:酸素魚雷の欠点
原因は魚雷のジャイロスコープが高速度から発射した際の衝撃に耐えられず、結果、針路を調整できずに迷走を起こしたためである。魚雷は1本毎に記録を取るなど大事に扱われており、極限状態での使用を想定した訓練・実験は行われていなかった。戦艦主砲弾ですらこうした記録はとられていなかった。
当時の日本軍の兵器全般の問題として、静止状態や丁寧な運用では問題が起こらないが、乱暴な取扱いをするとすぐに動作不良を起こす傾向があり、かならずしも酸素魚雷だけが欠陥を抱えていたわけではなかった。
用兵側からは「武人の蛮用」に耐えることを要求されていたが、性能および工業的に耐える物は開発できなかったのが実情であった。
九三式魚雷を含む、日本製魚雷は実施部隊での信管の調整が可能とされており、現場では「不発にしたくない」という意識から衝撃尖を過敏に設定していたことが多く、それはしばしば目標に命中する前に自爆する「早爆」を招いた。
設計部門の担当者はこの信管の調整機能をつけたことを「最大の痛恨事」
当時の日本ではバブルパルスなど水中爆発の研究は非常に遅れていた。水中爆発やバブルパルス、バブルジェットに関する初期の専門書であるRobert H. Cole著のUnderwater Explosionsが出版されたのが1948年であるから第二次大戦当時の日本人は水中爆発の専門知識を知りえなかったと考えられる。
日本軍が戦った各海戦において10,000m以上からの魚雷発射はほとんど行われなくなり、九三式魚雷は射程を減らして炸薬量を増やした三型が徐々に主流となった。
Q:酸素魚雷の友軍での運営
太平洋戦争中に遣独潜水艦作戦によってドイツ海軍は九五式酸素魚雷を入手したが、研究目的での利用にとどめ、実戦においては使い勝手の良い電池式魚雷、蒸気式魚雷を使用した。
Q:具体的な戦略
敵艦隊の防御火力も強力なことを算定し、12隻から16隻の駆逐艦を投入、水雷戦隊として突入する。その盾となる突破支援に指定されていた条約巡洋艦戦隊も雷装し、生残した艦はすべて敵主力艦を攻撃する。
日本駆逐艦との海戦の際には「敵に柔らかい横腹を見せるな(魚雷発射態勢に持ち込まれるな)」が連合軍の合言葉になったといわれる。
第二次大戦中の米国の巡洋艦・駆逐艦が対空・対潜・砲雷撃のバランスを重視したのに対し、日本のそれは酸素魚雷の大威力を活かすために雷装を重視して偏った設計をされる傾向が強かった。そのため、装甲を薄くしてでも雷撃戦を想定した装備が施された。
雷撃が日本海軍で重視されたのは艦隊決戦で勝利を得るためであった。しかし太平洋戦争では艦隊決戦が起こらず、重雷装の艦船は本来想定されていない、空母・航空機・潜水艦が一体となった島嶼攻防戦に投入されることとなった。
世界最強の魚雷を持ったがゆえに太平洋戦争全体のなかで日本海軍が兵装転換に後れを取り、それが敗北の原因の一つとなったことは否めない。